今日で最後になる進士服に腕を通して、俺は小さく溜息を吐いた。
居心地の良かったこの室とも今日でお別れになる。
姮娥楼で借り受けていた一室は、俺が本格的に官吏になるのにあわせて引き払うことになっていた。官吏が妓楼住まいじゃ面目も立たない。
色々な人に惜しまれはしたけれど、さすがに一人で生活しないといけないし。
配属先が確定したら実家に連絡も入れなきゃならない…その時に妓楼に住んでます、なんて知れようものなら親父にくびり殺される。絶対。
「憂鬱だ……」
「まったく、辛気くさい顔をすんじゃないよ!一応は門出の日だろ?」
「…そーですけどー」
少々事情が異なる、なんて言葉を俺は飲み込んだ。
今日の官位と辞令を受ける式がどのように執り行われるのか、俺は既に知っている。
だから別にそのこと自体に対しての憂いなんてものは何もない。
むしろこの室から出ていくことの方が死活問題だったりする。
「だって胡蝶さん、こんな生活力無い俺がどうやって今後生きれば良いんですか!?」
「そんなの知ったこっちゃ無いよ。…ほら、とっととお行き!」
「…って感じで追い出されたんだけど、この先どうやって生きようか……ははは」
「いやーっ、ちょっとしっかりしなさいよ!」
「相当参っているみたいですねー…」
「何だかんだで豪商の息子だからな、こいつも」
俺の心からの訴えを見事に切り捨ててくれたのは秀麗ちゃん、影月君、珀明のいつもの三人組だった。特に珀明、容赦がない。
さすがに家人雇うほどの金はないし…誰かの家に転がり込むしかないんだろうか。
最悪な展開ばかりが頭を流れていく中、俺は今度は腹の底から溜息を吐いた。
果たして俺は生きていけるんだろうか。
「そんなことはいいとして……しかし、おかしいな。いつもなら吏部で、吏部尚書から官位と辞令を受けると聞いたが」
「そ…そうよねぇ。私もそう聞いたわ。これじゃ国試及第の時みたいじゃないの」
珀明は更に俺に追い打ちをかけた!
俺を無視して進められていく会話に心の中で涙を流しながら、俺はその場に膝を抱えてしゃがみ込んでいた。
なんだかんだで秀麗ちゃんまで俺を見捨てていくし!
影月君は俺のことを少し心配そうな顔で見ていたが、珀明に声をかけられてすぐにその視線は外されてしまう。
恨むべし珀明。こうなったら珀明の屋敷に押し掛けてやる。
「さて、何処に行かされるんだか…。僕は絶対中央だな」
「僕は、出来れば地方が良いですー。秀麗さんは?」
「……そうね、どこでもいいわ。どこだって、やることは同じだもの」
はどうなの、という視線を受けて、俺はふらふらとその場に立ち上がった。
何処へ行くのかなんて今更希望するまでもないけれど、それは口にしない。
俺は秀麗ちゃんに同意するようにひらひらと手を振って見せた。
そう、何処に配属されようと俺のやることは同じなんだから。
とまあそんなことを思っていると、さっと扉が開いて魯尚書が姿を現した。
秀麗ちゃん達が頑張った課題のお陰で、お粗末すぎる書類ばかり生産し続けた前の尚書は無事に更迭された。
魯官吏は繰り上がって尚書になったのが、それでも途中で手放す訳には行かないと俺たちの面倒を未だに見続けている。
さすが俺、ちゃんと所見で人物像を見抜けてた。よしよし。
そんな自己満足に浸っていると、突然周囲がざわめいた。そして銅鑼が鳴る。
「さあ、これが、官吏としての君たちの始まりだ」
魯尚書が微笑みながら俺たちにそう促した。
そして緊張した面もちの進士達がぞろぞろと移動を始める。
(…そっか、主上から直接官位と辞令を受けるって本来は緊張することなんだっけ)
いい加減茶飲み友達という関係の方が正しいんじゃないかと思い始めてきた主上、紫劉輝今上陛下このことを思い出す。
集まった時から、むしろ朝出仕する時から既に俺は知っていたことだった。
「 。そなたを、尚書省工部下官に命じる」
「はい」
そう、だからこれも知っていた結末だった。
吏部を目指した君、配属先は工部でしたー。